板東久美先生のご逝去

もう一つの哀しいお別れは

「板東久美先生」とのお別れです。(令和4年  1月17日 ご逝去)

 

板東久美先生との出会いは「板東ファミリー」との関わりから始まりました。 

徳島新聞社・文化部・部長だった「悠夫」伯父様は、徳島の文化活動を、グイグイとリードしていく、凄腕の方で、その凄いエネルギーの渦に、私も飲み込まれ、時には厳しく発破もかけられ、親しく交流させていただいていました。

 

 また、国立音大を卒業されたばかりの「貴余子」叔母様も、徳島の音楽活動に対し、意欲満々の方で、私もその熱い「いぶき」に刺激され、一緒に活動させて頂いていました。

 

そのお二人からも、事あるごとに「フルートをやっている姪がいる」こと、「その才能を育てたい」という、「愛情」に溢れた「お話」を伺っていました。

 

 そんな事情の中、お父上「幹夫様」が徳島に転勤されたのを機会に、私との師弟関係が生まれました。

 

 久美さんは「天性の」豊かな才能を発揮して、メキメキ上達しました。

 レッスンを始めて間もない「秋のコンクール」に「ライネッケの協奏曲」で出場しました。

 短期間にこの曲が、吹けたということは、久美さんの能力が如何に高かったかを、伺い知れるものだと思います。

 

 その後、久美さんは国立音大に進まれますが、きっと、貴余子叔母様の出身大学である「母校」への、強い思い入れ」に、感化されてではなかったかと想像されます。

 

 卒業時に「卒演に選ばれた」ということも、如何に国立音大でも「実力が抜きん出ていたか」が伺い知れます。

 卒業後は東京で活躍されるかと思ったのですが、「ご両親」、そして「徳島が大好き」だった久美さんは、なんと徳島に帰って来られました。

 

すぐに徳島文理大学に勤務されることになり、私とは師弟関係から同僚という関係になりました。

 

以来、久美先生は、あらゆる所で「上手に」私を助け、「盛り立てて」呉れました。

二人の関係を「象徴」するような「思い出話」があります。

 

昔は、「フルート仲間」連れ立って、フェリーで大阪までコンサートを聴きに行っていました。

コンサートが延びて、帰りのフェリーに間に合うか、際どくなったことがありました。

 

私は引率責任者として、船に乗り遅れては大変と、「フェリーの出発を待ってもらおう」と、一人先に駆け出しました。

しばらく走ると、私の後ろから何か黒い影が追ってきます。

「黒い犬」が私が走るのに刺激されて、ついて来るのかな? 

と思っていました、

その黒い影は、すぐに私を追い越して、フェリー乗り場の方に「まっしぐらに」疾走して行きました。

船着き場に辿り着くと、そこには久美先生がいて、船員さんとニコニコ話をしているではありませんか~。

 

おかげで、全員フェリーに乗ることが出来ました。

 

私と久美先生の関係は、以後、大抵「こんな関係が」、続いて来たように思います。

 

フルート仲間で「合宿」や、「クリスマス会」、「発表会」などを、度々行っていましたが、その都度、「よくぞ人が集まるものだ!」と、感心しながらも、盛況の訳を深く考えることはありませんでした。

 

しかし、よくよく集まってくる人達の「顔」を思い起こしてみると、ほとんどが、久美先生の「友人・知人」で、あったことに気が付かされました。

 

久美先生には人が集まって来るのです。

でも、それは、単に「人なつっこいから~」、「オーラがあるから~」、

と言い切ってしまうのは、とても失礼なことだと思います。

 

久美先生は、一人一人の友に「きちんと向き合って」、心からの愛と誠意を尽くされました。

細やかな気配りがあります。

だからこそ、人が集まって来るのだと、私は思っています。

 

「同僚に」過ぎない筈の、私にも、いつも誠意を持って付き合ってくれました。

 

そんな、久美先生に支えられた「理想的な職場」で、一緒にコンサートをしたり、お酒を飲んだり、そして楽しく「退職」を迎えることが出来ました。

 心より感謝しています。

 

久美先生の先には、さらに「素晴らしい未来」が、待ち構えている筈でした。

 まだまだ、みんなを引っ張って行って欲しかった!

何が何でも早過ぎる~。

 

みんな久美先生が大好きです!

きっと、みんなあの笑顔を忘れないでしょう!

ご冥福をお祈りします!

 

令和4年 1月19日