芸術は生活を飾る花、余裕があってはじめて生まれるもの
と考えてる人が多いけれど~、
芸術は生活を飾る花、余裕があってはじめて生まれるもの
と考えてる人が多いけれど~、
人は「歌いたい、演奏したい」と思う「純粋な心」を持っています。
ところが、やり始めた途端に余計な目標を立てずにはいられない「性」があるようです。
そして、その目標に愚直に向かうことにより、当初の「純粋な心」を忘失しています。
私は、長い間、そんな矛盾を見つめ続けて来ました。
「愉しいリコーダー教室」「変幻自在の愉しい合奏団」を始めて以来、「好きな人が好きなように出来る音楽」というものを、もう一度取り戻したいと願っています。
出演:
演目・曲目:
合唱コンクールや吹奏楽コンクールなどでは、一糸乱れず、パワフルで、人目を惹きつけるような演奏が高く評価されます。
しかしそれらはライバルを仮想し、「競争」し「勝利」するということを根底に置いた産物であって、その音楽は「見栄え」「闘争心」「優越感」が先行しています。
篠田桃紅さんは、そんな、外から命令され「揃える」ということが大嫌いだったようです。
付和雷同ではなく、個々の考えを大切にしながら、
個と個が「共振」し、「共鳴」し合って生まれるものこそ最高であり、目指す究極のものだということでしょう。
音楽においても、本当に素晴らしい音楽とは、そうした「内なるところ」から生まれるものだと思います。
岡本太郎氏のごく短文の中に、「人間として生きる」大切なことが凝縮されていると思いました。
期せずして連載された新聞記事が、切り口は違えど、まるで申し合わせたように、大切なことを語っています。
岡本太郎氏は「誇り高くそびえ立つ人間で在れ!」と、人間の「尊厳」の大切さを………。
イ・ラン氏は「他人の受けを気にしてはいけない!」と、自己の「主体性」の大切さを………。
ヴァイオリニストの廣津留すみれさんはハーバード大留学の体験から「自分のストーリーを語れる人間で在れ」と………。パーソナリティの育成の重要性を語っています。
そして、鳥羽和久氏の今、学校で起こっている「人間性まで評価する」という動きに対する懸念。
この世の中は何事にも「評価」、「成績」がついてまわります。
そのことが如何に「人間と世の中を歪めているか~」
「評価」は「格差」を見極める物差しとして好都合なのです。
最後にジャン=ジャック・リュブナ氏の「秩序が暴力である!」という、衝撃的な論説。
「秩序は必要」ということはほとんどの人が当然と考えているでしょう。
しかし「秩序」は独り歩きし、増幅を繰り返し膨れ上がって行くものです。
芸術、芸能、スポーツ、とすべてが一糸乱れない足並みを追求し、同調を美化し、勝ち組の称賛を誇張しています。
その先に在る【恐怖」や「苦しみ」を包み隠して~。
ジャン=ジャック・リュブナ氏はそんな恐怖を警告しています。
各氏はそれぞれに他に同調したり、他からの評価ではなく「自分自身の人間としての在り方が大切」ということを語ってくれています。
石田晴美さんはE・F・ザイラー氏の愛弟子としてピアノの薫陶を受け、長い間ピアニストとして活躍されて来ました。
視力が少し弱かったこともあり、ソロの演奏会でも、夫君和博氏(フルーティスト)の伴奏でも、いつも全曲暗譜で演奏されていました。
その演奏には、いつも生半可でない気迫に溢れたものを感じさせられました。
その晴美さんが視力がさらに落ちたということで、きっぱりとピアノと決別し、何と「籐工芸」を始めたというではありませんか!
「チャレンジ徳島芸術祭」に出展した、とのことで観に参りました。
ピアノ演奏での凛とした「孤高の迫力」が、籐の作品にも蘇ったのを感じさせられました。