「五木ロボット」から連想すること

コロッケさんの「ものまね」に「五木ロボット」というのがあります。
これをみていてハッ!とショックを感じました。

今、ロボットを人間に近づける研究がされています。
ロボットの人間化です。

一方で、人間をロボット(=機械)に近づけようとしている、ということにハッ!とさせられたのです。
つまり、人間のロボット化が進められているのです。
これは人間の意図的なものでしょうか? それとも計らずもなのでしょうか?

昨日、音楽会に行って同じ事を感じました。
それはマーチングという演奏でした。
マーチングは演奏しながら演技をするのですが、
その動きが、まったくロボットの動きを模していると感じたのです。
演奏の良否を云々しているのではありません。
演奏は素晴らしいものだったと思います。

マスゲーム的なものを追い求めるのは、ロボット人形の動きに憧れ、近づこうとしているのだという気がします。
そういえば最近のアイドルたちも、全員で一糸乱れず、精巧なロボットのように歌って踊るというのが主流です。

私たち人間は、人間らしくやることに飽きてしまったのでしょうか?
そして、よりによってロボットに近づくこと、ロボット化することに価値観を持とうとしているようです。

機械的なものに近づき、機械的なものが価値を持つようになってきている現象に、みんなは気がついていたのだろうか~?  
(いまごろ気が付く私が、一番ノー天気なのかも知れません。(笑))
 
マーチングやステージで集団でパフォーマンスをするという演奏の盛隆とともに、機械的な演奏が幅をきかせてきているように思います。

完全な技術力の追求は、結局は機械的な完成度を目指すことになり、本来不完全であることが魅力といえる人間性などは抹殺されてしまいます。
 
従って、コンクールで競うことは、機械的な完成度を目指すことになりますから、おのずと人間的なものは抹殺されるでしょう~。
 
しかも、コンクールでは、審査員は「甲乙付け難かった!」と苦心するにもかかわらず、結果的に一位になったものだけが世間に認められ、脚光を浴び、
その他の人はたいした価値は無いと、勝手に判断され、忘れ去られます。
二位も、三位も、それぞれに捨てがたい個性があり、価値を有しているのに~。
 
優勝した人だけしか認めないというシステムは、やがて機械化で満たされる社会への移行の、第一歩だという気がします。