「日本人の音楽表現が空っぽで、ナンセンス」と言われる理由

日本の音楽教育の間違いを指摘している紙谷一衞氏は、その最大の理由は「楽譜の音を正確に並べさせるだけの教育」と言っています。
 「楽譜に正確に、忠実で在れ!」とする教育は新即物主義的教育として、「楽譜にこだわらず、盛り込められた音楽を自由に表現することこそ教育だ」とするロマン主義的教育と、2大潮流として存在してきたと思いますが、日本では積極的に音楽を創造して行くことについてはまったく自信が無いことから、その一面だけを追うことになり、「日本人の音楽表現が空っぽで、ナンセンス」と言われることになってしまった。
私をも含めて、日本人のほとんどの音楽を学んだ者が、そうした「楽譜に正確に、忠実に!」「それ以外のいらぬことはするな!」という、忌まわしい指導法の洗礼を受けてきたと思う。
私情や詩情を挟むのは「演歌」と言われスゲさまれた。
「変だな?」と疑問を抱きながらも、日本の最高学府と言われる大学を出た大先生がおっしゃることだから、余計なことは考えず、ひたすら「楽譜に正確に、忠実に!」練習を繰り返すしか無いと、「これが音楽をやるということなんだ」と誤解してきた。
その誤解こそが「日本の音楽教育の間違いだった」と指摘してくれる人は、日本人には誰もいなかった。 現在もいない。
日本人の演奏が無表情、無表現ということに、疑念で悶々としていたことが、すっきりと紙谷氏の発言で氷解させられました。
「コンクールで勝つこと」と、「マスコミで売れる音楽」しかやっていない日本人には「楽譜に正確に、忠実に!」を目指すだけで、ちょうどよいのかも知れません。
深い音楽的教養に基づいた上で、心を打つ音楽、哀しい音楽、崇高な音楽等々を、楽譜の中から引っ張り出せなくては、音楽をする意味はありません。

私には、「感心させる音楽」は不要。 「感動させる音楽」こそ必要です。
「楽譜に正確に、忠実に!」だけでは音楽は現われて来ません。
音楽をする楽しさも、喜びも見いだせません。

ヴェネズエラでグスターボ・ドゥダメルを生み出したエル・システマという音楽教育が脚光を浴びていますが、形式的な教育ではなく、音の変化、様々な音の魅力を感じること(即ち生きた音)から出発するということが思想の根底になっているようですが、これは素晴らしいことだと思います。
ただ、その根本になっている考え方が、日本の鈴木慎一先生が伝えた「才能教育」であるといわれています。
鈴木慎一先生には、私も、40年前にフルートの巨匠マルセル・モイーズ先生が日本の松本市に来られた折りに、お目に掛かり、言葉を交わしていただいたことがあります。
直接「才能教育」のパンフレットを頂きました。
それがきっかけで「才能教育」に触れることが出来、かねがね素晴らしい教育法であると感じ入っていました。
しかし、日本では少なからず、最高学府の教育方法とは相容れないものと見られていたように思います。
「楽譜に正確に、忠実に!」だけの「Neue Sachlichkeit」教育とは、相容れないことは想像に難くないでしょう。