生涯の師と、敬愛申し上げていた恩師が亡くなりました!
恩師との出会いは、大学に入学したばかりの初夏の頃でした。
その大学は当時教授陣たちも先輩たちも「西の芸大たれ!」 と、
高邁なプライドと夢を持って意気上がっていました。
にもかかわらずフルートの先生はいませんでした。
そこでフルート専攻生で相談し、大学にフルートの先生を雇ってもらうよう陳情しました。
新しい先生が来るのを待つ間も、早くフルートのレッスンを受けたいという思いがつのり、東京フィルハーモニー交響楽団のフルート奏者であった兄にそのことを話したところ、
「今春卒業したばかりの若林正史君が大阪フィルハーモニー交響楽団に入団した。 彼は音楽性豊かな人だから彼に習うといいよ!」
と紹介してくれました。
それから若林先生との生涯の交友が始まります。
若林先生はとにかくよく転居されました。
最初は豊中市の岡町、2番目は尼崎市の立花での独身の下宿生活でした。
そこでは、レッスンが終わったら先生手づくりの夕食をごちそうになりながら、「この曲いいだろう?」と次々と自慢のレコードを聴かせてくれました。
3番目は結婚されて茨木市の一戸住宅。
仲睦まじいご夫婦ですが、一度だけ「いさかい」に出くわしました。
若林先生が「どぶ」の中から「古い木株」を見つけ、面白い型だなと脇にとって置いたところ、奥様が汚いと言って「どぶ」に蹴込んだ。
というのです。
険悪なお二人を前にして、私は失礼ながら笑ってしまいました。
私がレッスンに通ったのは茨木市の家までですが、
その後、先生は桃山台の高層マンションへ、
ここにはベルリンフィル時代の「J.ゴールウェイさん」も泊りに来られたそうです。
それぞれ夢と理想を持って転居されたと考えますが、
集大成が生駒市のお屋敷だったと思います。
私がドイツのマンハイムに住み始めたばかりの夏、
マンハイムの街中の映画館の前で、映画の看板を眺めている日本人を見掛けました。
よく見ると、何と若林先生ではありませんか~。
スイスでマルセル・モイーズ先生の講習会が終わった後、あちこち街を巡っていたそうです。
「帰りの交通費を残して、有り金全部使ってしまった!」
と言いながらな、最後の小銭でバナナを買ってくれました。
二人でバナナをかじりながらマンハイムの街を散策ました。
先生と出会ってから50年、
若林先生から頂いた最後の年賀状、寒中見舞いとなりました。
独特の太くて、優しい文字を読む度に涙します。