尾崎放哉

尾崎放哉(おざき ほうさい)

種田山頭火はよく知られているが、尾崎放哉という俳人については、恥ずかしながら、つい最近まで何も知りませんでした。
妻の恩師が、尾崎放哉記念館でお世話役をされているというご縁で、
初めてその偉大な俳人の片鱗に触れることが出来ました。

彼を知ることが出来たのは、私にとっては幸運としか言いようがありません。
 
 
尾崎放哉の生涯
 
1885年、鳥取に生まれ、1926年小豆島で没、享年41才。
東大法学部卒業後、生命保険会社に就職し、同年、郷里の遠縁の娘と結婚。   大阪支店次長を務めるなど、出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然、それまでの生活を捨て、京都の修行場・一燈園に入り、寺男で糊口をしのぎながら、托鉢、労働奉仕、読経の日々を送る。
病気がちになった放哉は死期を予感したのか、友人井泉水に「海の見える所で死にたい」と訴える。小豆島北西の土庄に庵ありと連絡を受けた放哉は、島へ渡り西光寺・南郷庵にたどり着く。ここが終の棲家となった。寺男としてではなく、庵主としての孤独な暮らしが始まった。

最後は極貧の中、ひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら、一人ぼっちの庵の中で自由律俳句のひとつの頂点を極めて死んでいった。
 ●代表作品   咳をしても一人

自由律俳句というのは種田山頭火のように、既存のしきたりから解き放たれた独自の世界観を作るための俳句。俳句というのは本来高踏的な趣味というか、要は金持ちや知識人の道楽として発展したものですから世間の垢にまみれている部分が必ずある。
種田山頭火や尾崎放哉はそのような俳句の世界と決別したわけで、そのためには富や名声を捨て、家庭を捨て、職業を捨て、一切無一物として死んでいくことを生き方として選択したのだ。
「咳をしても一人」というこのつぶやきは、一人だからさみしいとか、一人だから気楽だとか、そういう意味づけそのものを拒否している。さみしかろうがどうであろうが、「自分が誰もいない荒れ果てた寺にたった一人でいる」という事実は変わらない。咳をしようが、咳をしまいが「一人」なのだ、という、「峻厳な孤独」をあらわしている。

 
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