私は、少年時代からの夏目漱石ファンで、何度も読み返し、すっかり自分が
漱石になったような気分でいました。
大学大学院教授が、「読み解いて」、という新聞記事がありました。
30代で英国へ留学した漱石。日本の知識人が〈西洋人のいう事だと云(い)えば何でもかでも盲従して威張った〉風潮にあらがい、英文学の本拠地にいながら下宿に引きこもって、文学書以外の読書に没頭した。
〈自分が他(ひと)から自由を享有している限り、他(ひと)にも同程度の自由を与えて、同等に取り扱わなければならん事と信ずるよりほかに仕方がないのです〉
「他(ひと)の自由」を尊重する漱石は講演で、一つのエピソードを披露する。朝日新聞の文芸欄を担当していた頃、批評記事に立腹した文人の取り巻きから取り消しを迫られたが、漱石は門下生に助力を求めなかったという。
〈私は意見の相違はいかに親しい間柄でもどうする事もできないと思っていましたから……向(むこ)う(門下生)の気が進まないのに……けっして助力は頼めないのです。そこが個人主義の淋しさです〉
人と人との絆やつながりが重視される現在、小森教授はこの「淋しさ」に注目する。 「人とのつながりはもちろん大切。ただ時に同調圧力に変わります。そのことを知っていた漱石は、まず他者の自由を認めようとした。そのためには淋しさに耐えることも引き受けたのです」
この個人主義、実は昨今の憲法改正論議の論点の一つでもある。自民党は憲法改正草案で、現行憲法の第13条「すべて国民は、個人として尊重される」の「個人」を「人」に置き換えた。草案づくりを担った議員はその意図を「個人主義を助長してきた嫌いがあるので」とホームページで説明する。衆議院憲法審査会でも、保守系議員から「個人の尊厳や基本的人権の価値を尊重しすぎるあまり、究極の個人主義、利己主義が広がっている」などの声が上がる。